トリドール社長|粟田貴也wiki経歴・プロフィール【丸亀製麺創業者】

「食の感動で、この星を満たせ」をスローガンに掲げ、世界的な外食チェーンを築き上げた粟田貴也氏。トラック運転手から一代で巨大企業を創業した粟田氏の歩みは物語の宝庫。

父を早くに亡くし、苦学しながらも夢を追い続けた少年時代。トラック運転手として貯めた資金で開業した小さな焼き鳥店から、世界1700店舗を展開する企業へと成長させた軌跡。その背景には、「お客様の喜び」を追求し続けた経営哲学がありました。

本記事では、トリドールホールディングス社長、そして丸亀製麺の創業者である粟田貴也氏のプロフィールと経歴、その経営理念、そして今後の展望までを詳しく紹介していきます。

この記事でわかること
  • 粟田貴也氏のプロフィール
  • 粟田貴也氏の経歴
  • 事業理念・大切にしていること
  • これまでの事業
  • これからの計画

トリドールホールディングス社長、丸亀製麺創業者の粟田貴也氏について興味のある方は、是非ご覧ください。

目次

粟田貴也氏のプロフィール

プロフィール

  • 生年月日:1961年10月28日
  • 年齢  :63歳(2024年 時点)
  • 出身  :兵庫県神戸市
  • 現職  :株式会社トリドールHD 代表取締役社長 兼 CEO
  • 趣味  :ジョギング、マラソン
  • 座右の銘:「念ずれば花開く」「功崇惟志、業広惟勤」

粟田氏は、3歳の時に神戸市から加古川市に転居しています。幼少期から勤勉で向上心が強く、学生時代には生徒会長を務めるなど、リーダーシップを発揮する人物でした。現在は、日本を代表する外食チェーンの経営者として、精力的に事業を展開しています。

学歴

  • 兵庫県立加古川東高等学校 卒業
  • 神戸市外国語大学 中退

加古川東高校は、スーパーサイエンスハイスクールの指定を受けた県内有数の進学校。粟田氏は、家計が苦しい中でも日雇いのバイトと学業を両立。

優秀な成績を収めるだけでなく、バレー部に所属しながら生徒会長も務めるなど、リーダーシップも発揮していました。

大学では、喫茶店でのアルバイト経験を通じて、「お客様を喜ばせることの面白さ」に目覚めます。本屋で立ち読みした雑誌で、神戸のケーキ店経営者の成功物語に触れたことも重なり、「早く自分の店を持ちたい」という思いを募らせた粟田氏。

「このまま大学に通うより、実践の場で学びたい」という決断から、1982年に大学を中退。すぐに開業資金を貯めるため、給与の良いトラック運転手の仕事に就きました。

家族

  • 実家:父(警察官)、母、2歳上の兄の4人家族
  • 現在:妻、息子2人、娘1人

中学1年生の時に父をくも膜下出血で亡くし、以降は母の内職収入と遺族年金での生活。決して経済的に恵まれたとは言えない時代を過します。

現在の家族については、あまり公にされていませんが、子供たちは会社経営には関わっていないとされています。

粟田貴也さんの経歴

上場までの略歴

  • 1982年:神戸市外国語大学を中退
  • 1985年:23歳で焼き鳥店「トリドール三番館」を開業
  • 1990年:有限会社トリドールコーポレーション設立
  • 1995年:株式会社トリドールに組織変更
  • 2000年:「丸亀製麺」1号店を加古川市に出店
  • 2006年:東証マザーズ市場に上場
  • 2008年:東証一部に市場変更

創業のキッカケ

粟田氏が外食業を志したきっかけは、大学時代の喫茶店でのアルバイト経験でした。お客様に料理を提供し、「おいしい」という言葉をいただける喜びに魅了され、独立を決意します。

大学を中退後、開業資金を貯めるため選んだトラック運転手の仕事。当時の求人広告で「月収50万円」という高給に惹かれ、早朝から深夜まで働き続けました。過酷な長距離運転の日々で、唯一の楽しみは仮眠所近くにやってくる移動式の屋台居酒屋。

疲れた体を癒やしながら、店主夫婦が織りなす温かな接客と、居合わせた客たちとの何気ない会話に心が和んでいく。その時の経験が、当初思い描いていた「ケーキ職人」の夢から「居酒屋」への転換点となりました。

粟田氏は後に「蝶ネクタイから、ねじり鉢巻きへ」と表現しています。

さらに運命的な出会いが重なります。大型居酒屋チェーンで修行していた幼なじみの女性と偶然再会。意気投合した二人は結婚を決意し、同時に事業のパートナーとしても二人三脚の人生をスタートさせます。

これまでの事業

  • 丸亀製麺(讃岐うどん専門店):840店舗
  • らー麺ずんどう屋:87店舗
  • コナズ珈琲:42店舗
  • 晩杯屋:44店舗
  • 肉のヤマ牛:24店舗
  • その他国内外:914店舗

貯めた600万円の資金を元手に、1985年に加古川駅近くの路地にオープンした小さな焼き鳥店「トリドール三番館」。粟田氏の事業は、ここから始まりました。店名の由来は、「生涯に焼き鳥屋を三店持ちたい」という当時の素朴な願いからです。

しかし、事業の転機は思わぬところから訪れます。2000年、父の故郷である香川県丸亀市を訪れた際に出会った、行列のできる讃岐うどん店。この出会いが「丸亀製麺」誕生につながります。

2003年には、JR神戸駅近くの商業ビル地下にセルフ式讃岐うどん店をオープン。当時のフードコートは「安い」「早い」を売りにした店ばかりでしたが、粟田氏は「手作り」「できたて」にこだわり、差別化に成功。

店の屋号、「丸亀製麺」は「父の故郷・丸亀」と「長寿の象徴・鶴亀の亀」をかけ合わせたもの。粟田氏の故郷への想いと商売繁盛への願いが込められたものでした。

その後、2004年に発生した鳥インフルエンザの影響で、事業の軸足を焼き鳥からうどんへと大きくシフト。これが結果として功を奏し、2007年には「丸亀製麺」の売上が焼き鳥事業を上回るまでに成長します。

2011年にはハワイ・ワイキキに海外1号店を出店。純粋な日本食を手頃な価格で提供する店として大きな反響を呼び、これを皮切りに海外展開が加速。タイ、中国、香港、ロシア、インドネシア、台湾、シドニー、フィリピン、ロサンゼルスと、次々に出店地域を広げていきます。

現在では、国内外合わせて1,951店舗を展開する巨大チェーンに成長。主力の丸亀製麺(840店舗)に加え、ラーメン業態の「らー麺ずんどう屋」(87店舗)、カフェ業態の「コナズ珈琲」(42店舗)、大衆酒場の「晩杯屋」(44店舗)、精肉店をルーツとする「肉のヤマ牛」(24店舗)など、多様な業態を手がけています。

海外展開においては、現地の食文化や嗜好に合わせて柔軟にメニューをアレンジしながらも、「手作り」「できたて」という基本理念は変えることなく、各国で高い支持を得ています。

海外の店舗数も861店舗(直営432店舗、FC/合弁429店舗)にまで拡大し、日本発の外食チェーンの海外展開における成功モデルとして注目を集めています。

粟田氏の事業展開の特徴は、単なる店舗数の拡大ではなく、各業態で「お客様の喜び」を追求し続けてきた点。その姿勢は、2011年に丸亀市の文化観光大使に任命されるなど、地域からも高く評価されています。

事業理念・大切にしていること

  • 「お客様の喜び」を最優先する経営
  • 「手づくり・できたて」へのこだわり
  • 従業員のモチベーションを重視した人事制度
  • 「体験価値」の重視

「お客様は、来なくて当たり前」。この言葉は、粟田氏が創業期から繰り返してきた言葉です。チェーン店でありながら、効率的なセントラルキッチン方式を採用せず、各店舗での手作りにこだわる背景には、この思想があります。

設備投資も人件費も嵩み、品質の均一化も難しい。しかし、「手づくり」「できたて」という価値を追求するからこそ、コンビニや他の外食チェーンとの明確な差別化が可能になる。

製麺機を導入し、目の前で麺を打つ。「丸亀製麺」の代名詞となる「製麺パフォーマンス」もこの信念によって生まれました。

そしてそれは、「体験を売る」という経営理念にもつながります。

「世の中が便利になり、お客様の選択肢が増えるなかで、単に安くておいしいうどんなんて、山ほどある」と語る粟田氏。だからこそ、製麺所で手づくりの、できたてのうどんを食べるという「体験価値」を提供することにこだわってきたのです。

人材育成においても独自の哲学を持っています。年功序列ではなく、若くても意欲的な社員には積極的に責任ある立場を任せる方針を採用。かつての自分のように「強い思いを持った若者」の成長を支援することで、企業全体の活力を生み出しています。

2023年には個人資産1600億円を超える経営者となった今でも、粟田氏は「このままで終わってよいのか」と自問自答する日々だといいます。

現状に満足せず、常に新しい価値を追求し続ける。その姿勢こそが、トリドールグループの成長を支える原動力となっているのです。

これからの計画

  • 2028年までに5,500店舗達成を目指す
  • 売上高3,000億円への挑戦
  • ライフスタイル企業としての多角的展開
  • 新規事業の開発と海外展開の加速

粟田氏は、トリドールを単なる外食チェーンではなく、「ライフスタイル企業」として再定義。新たな成長戦略を描き、化粧品やSONOKOブランドの食品など、飲食以外の分野への進出も進めています。

この大きな挑戦には課題も存在します。人材育成、品質管理、そして各国での競争激化など、乗り越えるべきハードルは少なくありません。

それでも、粟田氏のビジョンには説得力があります。なぜなら、これまでの歩みの中で、「効率」や「標準化」という業界の常識に逆らいながらも、独自の価値を創造してきた実績があるからです。

「食の感動で、この星を満たす」という壮大なスローガンも、決して誇大な夢物語とは感じられません。

グローバル化と地域性、効率性と品質、拡大と深化—。これらの相反する要素をいかにバランスよく実現できるか。粟田氏の手腕が、改めて問われることになるでしょう。

まとめ

トラック運転手から一代で世界的企業を築き上げた粟田貴也氏の歩みは、まさに日本の起業家精神を体現したもの。その成功の背景には、「お客様の喜び」を追求し続けた揺るぎない経営理念があります。

2023年には個人資産1,600億円を超え、日本の富豪ランキング49位にランクイン。しかし、今なお「現状に満足せず、常に新しい挑戦を続ける」という姿勢を貫く粟田氏。

粟田氏の描く「食の感動で、この星を満たす」という壮大なビジョンが、どのように実現されていくのか、今後も注目が集まります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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この記事を書いた人

管理人の0107(オトナ)です。

これまでの経歴
・営業・マーケティングの仕事歴30年
・海外での生活10年
・人間心理のエキスパート

自分を支えてきたあらゆる物・人への好奇心。そのアンテナに引っかかった情報を、斜め上からの視点、オトナの視点でまとめて行きたいと考えています。

時事ネタ、芸能・スポーツネタから、お店の情報に至るまで、幅広い情報をわかりやすくまとめていきますので、読者の皆様の情報入手の効率化に役立つことが出来れば、何より嬉しく思います!

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