俵静夫のwiki経歴・プロフィール【礼文島トド猟師】

北の最果て、礼文島。そこで己の生涯を海と共に生きた漁師がいました。それがトドとの闘いを通じて命の尊さを説き続けた俵静夫さん。

厳寒の海で培った独自の哲学と、最後まで海を愛し続けた生き様は、現代を生きる私たちにはどのように映るでしょう。

本記事では、俵静夫さんのプロフィール、経歴を振り返りつつ、トド猟に捧げたその生涯を探ります。

この記事でわかること
  • 俵静夫さんのプロフィール
  • 俵静夫さんの経歴
  • トド猟とは?
  • トド猟へのこだわり
  • 後継者

礼文島、厳寒の海に生きた伝説のトド猟師、俵静夫さんについて興味のある方は、是非ご覧ください。

目次

俵静夫さんのプロフィール

  • 名前:俵静夫(たわら しずお)
  • 生涯:1935年-2024年
  • 出身:北海道礼文島近くのトド島(現在は無人島)
  • 兄弟:9人兄弟の長男
  • 愛船:第二十八龍丸(1トン未満の小型船舶)

現代の日本では失われつつある「人と自然の関係」を体現した漁師。

礼文島より北に位置する無人島・トド島で生まれ育った俵静夫さん(1935-2024)は9人兄弟の長男として、戦後の厳しい時代を生き抜いてきました。

そして、この島で生まれ育った経験は、後の人生に大きな影響を与えることに。

物資の乏しい離島での暮らしは、自然との共生なくしては成り立ちません。そこで培われた自然への畏敬の念は、彼の漁師としての哲学の礎に。

最晩年まで第二十八龍丸を操り、極寒の中での出漁。まさに礼文島の自然と共に生きた漁師でした。

俵静夫さんの経歴

・18歳で自身の船を購入し独立
・30歳でトド猟を開始
・その後、約60年にわたりトド猟を継続

18歳という若さで漁師として独立した俵さんは、30歳でトド猟に転向。当初は家族を養うための必死の営みでしたが、ある出来事を機に、その在り方は大きく変わることに。

エキノコックス対策での動物駆除の経験。この時の「動物を苦しめてしまった」という反省が、「命を奪う」という行為への深い考察につながり、独自の哲学「トドを苦しめない」を確立していくことになります。

人間の都合で命を奪わざるを得ない現実と、その命への敬意をいかに両立させるか。この問いは、環境問題に直面する現代社会にも通じる重要なテーマ。

それだけに、2023年に肺がんと診断された際も、手術を選択せず、最後まで海の仕事を選んだ俵さんは生涯をかけてたどり着いた哲学には重みがあります。

トド漁とは?

・11月から3月の厳寒期に実施
・体重1トンにも及ぶトドを狙う危険な漁
・現在は漁業被害対策として実施

11月から3月の厳寒期、トドは魚を追って南下。その期間の漁業被害を防ぐために行われるトド猟は、単なる害獣駆除ではありません。

それは人間と野生動物との関係を問い直す機会でもあるのです。

なぜトドは漁網を襲うようになったのか。魚資源の減少という環境の変化が、人間とトドの軋轢を生んでいるのは事実です。

この構図は、まさに開発と環境保護の対立という現代的な課題。この点でも、トド猟とは現代人にとって避けて通れないテーマであることを再認識させられます。

ちなみに、トドによる漁業被害は北海道だけでも年間10億円を軽く上回る規模。漁業者にとって死活問題であることは言うまでもありません。

かつての礼文島では、トド肉は貴重なタンパク源。現代のトド漁は漁業被害対策。人の営みの変化がもたらす皮肉も感じます。

トド漁へのこだわり

・一日3発までという厳格なルール
・トドを苦しめない一発必殺の技術
・命を無駄にしない完全活用

俵さんの信念は「眠るようにしとめる」という言葉に集約されます。3発限定という自らのルール、一発必殺の技術の追求、命を無駄にしない姿勢。

これらは単なる技術や方法論ではなく、生命への深い敬意から生まれた哲学でした。

この姿勢は、資源の持続可能な利用という現代的課題への一つの解答を示しているのかもしれません。

そしてその解答を獲得するために高めたハンターとしての技術こそが、俵さんの矜持なのでしょう。

後継者

  • 礼文島には約20人のトドハンターが所属

約20人のトドハンターを擁する礼文島で、俵さんは独特の後継者育成観を持っていました。技術は教えても、命への向き合い方は自ら体得すべきという考えです。

この姿勢は、技術の継承と同時に、その技術を支える精神性をも伝えようとする、日本の伝統的な「道」の考え方に通じるものがあります。

そして、その「道」は、俵さんの生き様を通して、次世代のハンターたちに確実に受け継がれようとしています。

まとめ

俵静夫さんは、最期まで海と共に生きることを選んだ漁師でした。肺がんと診断されても手術を拒み、「死ぬまで俺の職場は海だ」と語った言葉からは、海とともに生きた男の矜持が感じられます。

その生涯を通じて私たちに伝えたかったのは、おそらく命の重さと、自然との共生の大切さだったのではないでしょうか。

俵さんの遺した足跡は、単なる漁師としての功績を超えて、人と自然の関係性についての貴重な遺産。

これからの時代、私たちはこの知恵をどのように活かしていけるのか、真摯に考えていく必要があるのではないでしょうか。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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この記事を書いた人

管理人の0107(オトナ)です。

これまでの経歴
・営業・マーケティングの仕事歴30年
・海外での生活10年
・人間心理のエキスパート

自分を支えてきたあらゆる物・人への好奇心。そのアンテナに引っかかった情報を、斜め上からの視点、オトナの視点でまとめて行きたいと考えています。

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