田中一村のwiki経歴・プロフィール・生い立ち【日本のゴーギャン】

南国の自然を鮮やかに描き出す、独特の画風で知られる日本画家・田中一村。生前は中央画壇から評価されることなく、69歳でその生涯を閉じた孤高の画家です。しかし、没後になって再評価が進み、いまや「日本のゴーギャン」と呼ばれるまでになりました。

奄美大島に魅せられ、50歳で単身移住を決意。紬工場で働きながら絵筆を握り続けた一村の人生には、芸術への無垢な情熱が溢れています。本記事では、その波乱に満ちた生涯と、独創的な芸術の世界をご紹介します。

この記事でわかること
  • 田中一村さんのプロフィール(学歴)
  • 田中一村さんの家族
  • 田中一村さんの経歴
  • 田中一村さんの画風・評価
  • 田中一村記念美術館へのアクセス

「日本のゴーギャン」、孤高の画家、田中一村さんについて興味のある方は、是非ご覧ください。

目次

田中一村さんのプロフィール(学歴)

  • 本名  :田中孝(たなか たかし)
  • 生年月日:1908年7月22日
  • 出身  :栃木県栃木市
  • 学歴:1926年 東京美術学校日本画科(現・東京芸術大学)に入学
       2ヶ月で中退 *同期は東山魁夷、加藤栄三、橋本明治、山田申吾

大正から昭和初期にかけての激動の時代に青春期を過ごした一村は、早くからその才能を開花。わずか13歳で上京し、芝中学校での学びを始めました。当時の東京は関東大震災からの復興期にあたり、新しい文化や芸術の息吹に触れる機会も多かったと思われます。

17歳という若さで「全国美術家名鑑」に名を連ねた一村の評価は、当時からすでに高いものでした。南画を得意とし、与謝蕪村や青木木米の画風を自在に模した腕前は、多くの美術関係者を驚かせたといいます。

1926年に入学した東京美術学校(現・東京芸術大学)では、後に日本画壇を代表する東山魁夷らと同期。しかし、学校の指導方針に違和感を覚えた一村は、わずか2ヶ月で退学を決意。以後、独学で自らの画風を追求していくことになります。

この決断は、当時の画壇の主流から外れることを意味していました。

退学後は、趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を支えつつ、自身の表現を模索。この時期の一村は、すでに画壇の慣習や形式に囚われない自由な精神を持っていました。

画壇の主流から外れることを恐れず、自らの信じる道を進む決意は、若くしてすでに固まっていたといえるでしょう。

田中一村さんの家族

  • 父:田中彌吉(木彫家、号は稲村)
  • 母:田中セイ
  • 妻:生涯結婚することなく独身
  • 姉:喜美子(1965年没、60歳)
  • 親戚:川村幾三(千葉時代の後援者、1965年没)

一村の人生は、6人兄弟の長男として生まれた家族との関係抜きに語れません。

父・彌吉は彫刻家として知られ、芸術家としての血筋を一村に伝えました。父は一村の才能を早くから見出し、7歳の時に「米邨」の号を与えています。この号に込められた期待は、一村の画家としての出発点となりました。

しかし、一村の人生は度重なる家族との別れに彩られることになります。20歳という若さで母と弟(実)を失い、その後も27歳で父と弟(明)を失うという悲しみを経験します。1927年には弟(芳雄)も他界しており、次々と家族を失っていく苦しみは、一村の芸術にも深い影響を与えたことでしょう。

そんな中で、姉の喜美子の存在は特別なものでした。千葉時代、喜美子は一村の芸術活動を深く理解し、精神的にも経済的にも支え続けました。二人は千葉市千葉寺町で共に暮らし、喜美子は一村の制作活動を献身的に支えたのです。

1965年の喜美子の死は、一村にとって大きな転換点となります。57歳でこの最後の理解者を失った一村は、遺骨を抱いて奄美に戻り、より一層画業に没頭していきます。また、同年には後援者であった親戚の川村幾三も他界し、一村の孤独はさらに深まることになりました。

もう一人の姉・房子も一村を気にかけ、1976年には甥の宏とともに奄美を訪れています。この時、房子と宏は一村が奄美で描いた作品を預かり千葉に持ち帰りました。これらの作品は、後の一村の再評価において重要な役割を果たすことになります。

このように、一村の人生における家族との関係は、喜びと悲しみが交錯するものでした。特に若くして多くの家族を失った経験は、芸術への没入をより深めることになったと考えられます。そして、姉・喜美子との強い絆は、一村が芸術家として生き抜く上での大きな支えとなったのです。

田中一村さんの経歴

前半

  • 1915年 児童画展で受賞(天皇賞もしくは文部大臣賞)
  • 1920年「枝垂れ桜に四十雀」の図が、イタリア人飛行士への贈呈書画集に選出
  • 10代で南画を習得し、与謝蕪村や青木木米の画風を自在に描く
  • 1931年 23歳で南画と決別し独自の日本画を追求
  • 1947年 39歳で青龍社展に「白い花」が入選
  • 1948年「秋晴」「波」を青龍社展に出品し、「波」は入選するも辞退

彫刻家の父を持つ一村の芸術との出会いは、幼少期にまで遡ります。7歳という若さで児童画展において最高位の賞を受賞した一村の才能は、早くから周囲の注目を集めていました。

1920年、わずか12歳の時には、「枝垂れ桜に四十雀」の図が特別な評価を受けます。これは、ローマ-東京間の長距離飛行を成功させたイタリア人飛行士への贈呈書画集に選ばれたもので、東京市内の小学校から一校一名の作品のみが選出される栄誉でした。

10代での南画の習得は、一村の卓越した技術を示すものでした。青木木米や与謝蕪村といった、日本の水墨画の大家たちの画風を完璧に模写できる腕前は、多くの美術関係者を驚かせます。この時期の一村は、すでに「神童」と呼ばれるほどの評価を得ていたのです。

しかし、1931年、23歳で大きな転機を迎えます。それまでの南画との決別を決意し、「水辺にめだか枯蓮と蕗の薹」という作品で新たな表現を模索します。この作品は後援者たちには受け入れられませんでしたが、一村自身は「本道と信ずる絵」として、強い確信を持って描いたものでした。

39歳になった1947年、青龍社展での「白い花」の入選は、一村の画風の変遷を示す重要な出来事となります。

翌年の青龍社展では、さらに重要な転機が訪れます。出品した「秋晴」「波」のうち、「波」は入選を果たしますが、「秋晴」は落選します。一村はこの選評に納得できず、「波」の入選を辞退。

このとき画号を「田中一村」と改め、以後、中央画壇との関係を完全に絶つことになります。

1953年と1954年には日展に挑戦しますが、いずれも落選。この経験は、一村の中央画壇への失望をより深めることになります。かつての同期生である東山魁夷や加藤栄三、橋本明治らが審査員として名を連ねていた中での落選は、一村の孤高の道を決定づけることになりました。

このように、一村の絵画との関わりは、幼少期の天才的な才能の開花から、独自の表現を追求する孤高の画家への道のり。その過程で経験した挫折や決断の数々は、後の奄美時代における独創的な作風を生み出す重要な基盤となったのです。

晩年

  • 1958年12月13日、50歳で奄美大島の名瀬港に到着
  • 1962年:名瀬市大熊の紬工場で染色工として働き始める
  • 1972年:紬工場を辞め、再び絵画制作に専念
  • 1976年:脳卒中で倒れ、一週間入院
  • 1977年9月11日:夕食の準備中に心不全で永眠(69歳)

奄美大島への移住は、一村の人生における最大の転換点でした。50歳という人生の折り返し地点で、すべてを捨てて南の島へ渡る決意をします。移住に際して、それまでの作品やスケッチブックを数日間かけて焼却したという事実からは、並々ならぬ覚悟が感じられます。

奄美での生活は、芸術への情熱と現実の生活との狭間で揺れ動くもの。1962年から始めた紬工場での仕事は、決して楽ではありませんでした。

染色工として働きながら、わずかな収入を絵の具代に充てる日々。しかし、この仕事を通じて奄美の自然や文化により深く触れることができ、それは後の作品に大きな影響を与えることになります。

体調の衰えは、晩年の一村を苦しめます。1972年以降は腰痛や眩暈に悩まされ、三度も昏倒を経験。1976年には脳卒中で倒れ、一週間の入院を余儀なくされます。

最期の住まいとなった和光園近くの一軒家は、一村自身が「御殿」と呼んで喜んだといいます。しかし、そこでの生活はわずか10日。1977年9月11日、夕食の準備中に心不全で倒れ、誰にも看取られることなく、その生涯を閉じました。

晩年の一村は、決して裕福ではありませんでしたが、奄美の自然に囲まれ、自身の芸術に打ち込む充実した日々を送っていたように見えます。そして、奄美の風土を独自の感性で切り取った作品群は、現代において高い評価を受けることになりました。

田中一村さんの画風・評価

  • 南国の動植物を鮮やかな色彩で描写
  • 緻密な観察眼と大胆な構図が特徴
  • 代表作に「白花と紅翡翠」「アダンの海辺」など
  • 没後、「日本のゴーギャン」と評価される

奄美時代の作品には、アカショウビンやソテツ、アダンなど、南国特有の動植物が躍動感をもって描かれています。緻密な観察眼に基づく写実性と、大胆な構図や色彩の選択が融合した独特の画風は、「南の琳派」とも呼ばれました。

生前は評価されることのなかった一村の作品は、没後になって再評価が進みます。1984年のNHK「日曜美術館」での特集を機に、その存在が広く知られるように。南の島に移住して芸術に打ち込んだ生き方から、「日本のゴーギャン」という異名も生まれたのです。

田中一村記念美術館へのアクセス

  • 所在地:鹿児島県奄美市笠利町節田1834
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この記事を書いた人

管理人の0107(オトナ)です。

これまでの経歴
・営業・マーケティングの仕事歴30年
・海外での生活10年
・人間心理のエキスパート

自分を支えてきたあらゆる物・人への好奇心。そのアンテナに引っかかった情報を、斜め上からの視点、オトナの視点でまとめて行きたいと考えています。

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