福田和子の生立ち|息子(長男)が語る母・事件!現在は?

福田和子という名前を聞くと、1982年に起こった松山ホステス殺害事件と、その後の長い逃亡生活を思い出す人が多いでしょう。しかし、その背後にある家族の物語はあまり知られていません。

「なぜ長男だけが母のことを語り続けているのか?」
「他の子どもたちはどうしているのか?」
「逃亡生活を続けた母と子どもたちの絆にはどんな意味があったのか?」

この記事では、福田和子とその息子、特に長男との特別な関係について詳しく見ていきます。彼らがどんな人生を歩んできたのか、そして現在についても解説していきます。

この記事でわかること
  • 福田和子事件とは?
  • 福田和子の生立ち
  • 福田和子と4人の子どもたち
  • 長男との絆—逃亡中も続いたつながり
  • 長男が現在語る母親の姿

福田和子事件、そして知られていない家族、長男との関係について興味のある方は、是非ご覧ください。

目次

福田和子事件とは?

1982年、愛媛県松山市で福田和子が同僚のホステスを殺害した「松山ホステス殺害事件」が発生。その後、福田和子は15年間逃亡し続けます。

その間、彼女は整形手術をして名前を変え、全国を転々としていました。この逃亡生活は日本中の注目を集め、「7つの顔を持つ女」と呼ばれるようになります。

そして、時効まで残り21日というタイミングで、1997年に彼女は逮捕。逮捕のきっかけは、福井市内のおでん屋で、常連客から声が似ていると通報されたことでした。

その後、彼女は無期懲役の判決を受け、2005年に刑務所で亡くなりました。

福田和子の生い立ち

  • 1948年1月2日生まれ
    福田和子は愛媛県松山市で生まれました。
  • 両親の離婚と移住
    幼少期に両親が離婚し、母親に引き取られて愛媛県川之江市(現在の四国中央市)に移り住みました。

    母親は自宅で売春宿を経営しており、福田は厳しい環境で育ちます。

    その後、母親は漁師と再婚し、二人で来島に移住しましたが、島の閉鎖的な環境に耐えられず、母子で今治市に移住しました。
  • 高校時代の経験
    福田は愛媛県内の高校に進学しましたが、交際していた同級生が事故で亡くなり、自暴自棄になった福田は、高校3年生の1学期で退学。
  • 17歳での強盗と収監
    17歳の時、福田は同棲していた男性と共に高松市の国税局長の家に強盗に入り、その罪で松山刑務所に収監。
  • 松山刑務所事件
    1966年、彼女が18歳の時に松山刑務所で「松山刑務所事件」に巻き込まれます。

    当時、第1次松山抗争で逮捕された暴力団関係者が看守を買収し、女性受刑者を強姦するという事件が発生し、福田もその被害者の一人でした。

    その後、高松刑務所に移送されましたが、そこでも同様の被害を受けますが、当時は被害届を出すことが許されず、事件の責任を追及することはできませんでした。
  • 出所後の生活
    出所後、福田はキャバレーでホステスとして働き始めます。

福田和子の生い立ちを知ることは、彼女がどのような環境で育ち、どんな痛みや苦しみを抱えていたのかを理解する上でとても重要です。

彼女はただの「悪女」ではなく、複雑で多くの苦しみを抱えた人間であったことが分かります。

福田和子と4人の子どもたち

福田和子には4人の子どもがいました。最初の夫との間に2人、再婚相手との間にさらに2人の子どもをもうけています。

家族全員が愛媛県大洲市で一緒に暮らしていた時期もあり、長男はその時期を「幸せな時間」と振り返り、母との関係においてかけがえのない日々だったと語っています。

福田和子は子どもたちを愛し、その成長にいつも気を配る母親。しかし、1982年に起こった事件によって福田和子の人生は一変。その影響は家族全体、特に子どもたちにとって深刻な影響を及ぼすこととなります。

1982年、事件当時の子供たちの年齢は

長男: 14歳
次男: 12歳
長女: 9歳
次女: 7歳

そして、事件後、福田和子の4人の子どもたちは、それぞれ異なる道を歩みます。公の場で母について語るのは長男だけであり、他の3人の子どもたちは表舞台に出ることを避けました。

他の子どもたちは事件の影響による心の傷を抱えており、それを癒すために静かに暮らすことを選んだのだと考えられます。当時の年齢や環境によって感じ方は異なるものの、共通していたのは「平穏な生活を送りたい」という思いだったのでしょう。

成長後でさえ、母のことを公に語ることで再び注目を浴びることを、彼らは避け続けます。それぞれが自分たちの家族や新たな生活を大切にするため、静かに日々を送り続けることを選択。

この選択は非常に人間らしいもの。福田和子の子どもたちにとって、母の過去を隠すことはある種の自己防衛であり、心の平穏を保つための唯一の方法だったのでしょう。

事件の影響を受けながらも、自らの人生を築くために彼らが選んだ「沈黙」という手段は、決して逃避ではなく、家族を守る強さの表れとも言えるのです。

長男との絆—逃亡中も続いたつながり

15年の逃亡生活と月1回の電話

15年間にわたる逃亡生活の中で、福田和子は長男との連絡を途切れさせることはありませんでした。警察に見つからないように細心の注意を払って、毎月必ず1度、公衆電話を使いお互いの状況を確認し合い、連絡を取り続けます。

母と息子の会話は、逃亡という特異な状況にもかかわらず、仕事や日常生活、将来の希望など、普通の家族の会話と変わらない内容。長男は、どんなに困難な状況にあっても、自分を思い続けてくれる母からの連絡は心の支えであり、その愛情を疑うことは一度もなかったといいます。

金沢の和菓子屋での共同生活

逃亡中、福田和子は金沢市内の和菓子屋で内縁の夫とともに3年間生活しています。この時期、長男も母と共に暮らし、和菓子屋で「甥」と偽り働いていました。

福田和子は店の接客や販売を手伝いながら、長男に和菓子作りの技術を教え、その共同生活は母子にとって特別な時間。

長男にとって、この和菓子屋での生活は「母と過ごした最後の平和な時間」だったといいます。福田和子が息子とともに生活し、日々を共にする中で見せた愛情や家族としての温かさは、長男の心に今も深く刻まれています。この和菓子屋での時間は、福田和子が母として最も純粋に子どもと向き合えた瞬間だったのではないでしょうか。

しかし、この穏やかな生活も長くは続きません。店主の親族が福田和子の素性に疑いを抱き、警察に通報したことで、母と息子は再び離れ離れに。

平穏だった生活が一瞬で崩れ去る経験をした長男。それでも、彼は母との思い出を大切に胸に抱き続けています。

長男が現在語る母親の姿

福田和子の現在

福田和子は2005年に刑務所で亡くなりました。享年57歳、死因は脳梗塞。福田和子が亡くなったことで事件の物語は一つの区切りを迎えましたが、長男が母のことを語り続けることで、彼女の存在は今も生き続けています。

鉄工所の社長としての今

福田和子の長男は、現在鉄工所の社長として成功を収めています。彼は過去を隠すことなく、母が福田和子であることを公にし、時にはメディアの取材にも応じています。

このように堂々と生きている背景には、母親への強い愛情と、自分の過去を受け入れているから。

長男は母の過去を否定するのではなく、自分の人生の一部として受け入れています。取引先や家族にも事実を隠すことなく説明し、常に誠実な態度で向き合っています。

彼の姿勢からは、母との絆を誇りに思い、どれほど複雑な背景があっても、それを自分の生き方の基盤としていることが感じられます。

個人的には、彼がこのように過去を受け入れて堂々と生きる姿勢には、深い感銘を受けます。過去の出来事を恥じることなく、それを自分の強さに変えていく彼の姿勢は、多くの人にとっても学ぶべきものがあるのではないでしょうか。

福田和子という母を持ちながらも、彼はその影を乗り越え、自分自身の道を切り開いているのです。

長男が感じる母への思い

長男は母について「尊敬できる存在」であり、「大切な母親」であると語ります。彼にとって福田和子は、逃亡者である前に、深い愛情を持ち、何よりも自分を支えてくれた母親。そして、事件後もその愛情は変わることがなかったのです。

もちろん、福田和子が犯した罪の重大さについても、長男は深く理解しています。被害者やその遺族に対して申し訳ない気持ちを持ち続けており、事件がどれほど大きな傷を与えたかについても十分に分かっています。それでもなお、彼は母としての福田和子を愛し続けています。

母の罪と向き合いながらも、彼は福田和子を「尊敬できる母親」として見続けており、その絆こそが彼の人生の指針となっているのです。

また、母が刑務所にいる間も、長男は定期的に面会に訪れ、絆をさらに深めています。母の最期の時も側に立ち続け、できる限りのサポートをしました。

賛否があるかもしれませんが、長男が母について語り続ける姿は、非常に意義深いものだと感じます。それは単に母親を擁護するためではなく、彼女が持っていた人間としての一面、そして母親としての愛情を否定したくないとに思いからくる行動。

彼の語る母の姿は、福田和子という人物、そして人間という生き物が抱える複雑さを私たちに教えてくれます。

まとめ

福田和子の長男が語る母との関係は、世間から見るととても複雑で理解しにくいかもしれません。しかし、彼にとって母は、犯罪者である前に、自分を愛し支えてくれた存在。彼がその事実を隠さず堂々と生きていることは、福田和子が持っていた母としての顔を私たちに教えてくれます。

4人の子どもの中で唯一、長男だけが母のことを語り続けているのは、彼らの間に特別な絆と深い愛情があったからです。

この親子の関係を通して、私たちは「家族の絆」について考えさせられます。人の強さや弱さ、そして無条件の愛がどれほど複雑で多面的なものか、改めて感じさせられる事件です。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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この記事を書いた人

管理人の0107(オトナ)です。

これまでの経歴
・営業・マーケティングの仕事歴30年
・海外での生活10年
・人間心理のエキスパート

自分を支えてきたあらゆる物・人への好奇心。そのアンテナに引っかかった情報を、斜め上からの視点、オトナの視点でまとめて行きたいと考えています。

時事ネタ、芸能・スポーツネタから、お店の情報に至るまで、幅広い情報をわかりやすくまとめていきますので、読者の皆様の情報入手の効率化に役立つことが出来れば、何より嬉しく思います!

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